児島市街を眺望できる龍王山の中腹に

聖観音立像(本尊・石造)、弘法大師坐像(木造)、不動明王立像(木造)をお祀りしています。

聖観音は、左手に蓮華を持ち右手は開いた形。観音はいろいろに姿を変えて衆生を救済しますが、その基本となる大慈大悲(衆生を子どものようにいつくしみ苦しみを抜く)の観音菩薩です。正観音とも表記します。

不動明王は「お不動さま」とも呼ばれ、五仏の主である大日如来のもとで、その手足となって働く役目をもちます。「不動」とは、真に清らかな悟りの心を表します。不動明王は勇猛で力強く、永久にあらゆる煩悩を打ち砕くとされています。

また、向拝左には、文殊菩薩の像が、左の手に経巻右手に剣をもつ姿で立っています。「文殊」とは妙徳の意味で、知恵を司る菩薩です。


朝日観音堂の歴史

朝日観音堂は、瀬戸内海国立公園の一角である龍王山の中腹にあります。

龍王山の麓、仁吾の辺りより城にかけては、弥生時代(およそ2千年前)にご先祖が暮らしていた所です。

山頂には神功皇后が三韓からの帰京の途中、潮満珠・潮干珠を置いて休息されたという伝承、麓には坂上田村麻呂の鬼退治の伝承が残っています。

また、雨や水の神とされる龍王(龍神)を祀ったところから、龍王山と呼ばれています。

江戸時代の中末期に、朝日の稲荷神社が祀られていることも農業の神様としてで、天明7年(1787年)の石灯籠、嘉永7年(1854年)の石鳥居、天保8年(1837年)の手洗は、その古さを私たちに物語っています。

弘法大師信仰の影響で出来た、本村のお大師堂は、観音堂のすぐ下の麓にあります。ここにも、安政3年(1774年)と享保元年(1801年)の古い地蔵石仏があり、文政6年(1803年)に西原三吉の奉納した一対の陰陽石灯籠は当時の風流を話しているかのようです。

朝日をまともに拝めるこの霊地に、明治13年(1880年)3月4日に観音堂が出来たのは、荻野勝太郎・荻野高蔵・古谷谷造ほか9名の信者によったことが「観音堂由来碑」に記録されています。

龍王に雨を祈る信仰は、塩田開発と共に形を変え、稲荷さまの農業への願い、弘法大師の信心と、西国三十三番の観音信仰に、智明大権現による熊野山伏信仰も加えられて、この朝日観音堂は多くの信者によって栄えています。西国三十三番札所巡りのミニ霊場が、この眺望の素晴らしい龍王山に出来上がりました。

明治15年(1882年)春には古谷谷造ほか9名、大正元年(1912年)春には谷造ほか4名、大正4年(1915年)春にも谷造ほか4名の世話人の活動は、お山の繁栄を続けています。大正8年(1919年)3月4日には、功労者古谷谷造79歳の記念碑が建立されました。

一・二次大戦中は、武運長久の祈願、食糧増産の願いも多く、最近では、身体健全・交通安全に加えて、受験成功のお願いも聞き届けて下さる、ありがたい観音さまです。

三十三番札所巡りは、心身を爽快に、健康長寿の道が開け、一家の栄えを招きます。

なお、輝く朝の太陽、希望に満ちる瀬戸の内海、島々の美しい姿、そうして朝日を受けて微笑む観音を拝し、私たちは心深く祈願し奉るのであります。


龍王山の民話

JR児島駅前から倉敷ファッションセンター、児島公園に通じるところに「児島民話通り」があります。

ここは、レンガ風のブロックを並べて歩道を形作っていますが、その中央部分に児島の民話9話、12面の絵を焼き付けた陶板を点々と配置してあります。

その9話は、駅前から児島公園に向かって、「七人の王子」「鴻ものがたり」「彦九郎の樽流し」「太閤の二つ岩」「由加の鬼塚」(三面)「金浜の伝説」「幽霊船」「くすみの哀話」「金の竜と青い竜」(二面)。なお、最後に番外「宝船」を置いています。

絵陶板は1面の縦横84cm。原画1面を9つに分割して焼き上げており、絵は児島地区12の小学校の当時の6年生ら約1,400人が一筆ずつ描いたと言われています。絵陶板を張りつけたのは昭和62年(1987)9月。一方、民話を彫った石碑(民話の碑)9基は、翌昭和63年3月、瀬戸大橋博88岡山の開幕前に、その絵陶板の傍らに設置されました。


交通アクセス

●電車でお越しの方

 JR児島駅より、徒歩約40分

●お車でお越しの方

 児島市民交流センター市営駐車場、もしくは観音堂の駐車場をご利用ください。

 児島市民交流センター市営駐車場より、徒歩約30分

 観音堂駐車場より、徒歩約10分

【観音堂の駐車場について】

 観音堂のすぐ下に駐車場があり、5台ほど駐車できます。

 なお、駐車場までの道は、狭く急な箇所がありますのでご注意ください。